二通りの選択しかできない人類

ネットやSNSを見ていると、あらゆるところであらゆる議論が繰り返し行われている。

議論というと政治を思い浮かべる人もいるだろうが、政治以外でも議論や論争、そして批判は毎日どこかで繰り返されている。

例えばある映画について「この映画の良さがわからない奴はバカだ」と言う人がいたが、一方で「この映画を絶賛している奴はバカだ」という意見もあった。

これは映画に限ったわけではなく、写真でも、ゲームでも、ドラマでも、音楽でも、およそあらゆる物に対してこのような一方的な主張が行われる。

「この作品の良さがわからない人間はバカ」、「この作品を褒めている人間はバカ」というような主張だ。

人というのはそれぞれ思考も、思想も、好みも、何を善とするか何を悪とするかも全く違う生き物だ。

みんなそれがわかっているはずなのに、なぜ「〜であるから〜はバカだ」、「〜でないから〜はバカだ」という論争が繰り返されてしまうのだろう。

綺麗事かもしれないが、お互いがお互いの主張を認め合えばこういった争いは起きないはずなのだ。

これについて、私の行き着いた答えは”人間は物事を二通りでしか考えない”ということだ。

善か悪か、天才か愚者か、聖人か悪者か、良いか悪いか、有益か無益か、下手か上手か、右か左か、およそ人間の作った社会にあるのは二通りの意見だけだ。

必然的に世の中にある言葉も二通りだけになる。

そこには中間が存在しない。

だからこそ”対義語”という言葉も出来たのだろう。

私は人間のこの”二通りでしか物事を考えない”という在り方に若干疲れてしまっている。

私がSNSを積極的に利用しなくなった理由もそこにある。

そこでは常に正反対の意見を持つ人間同士の争いがあったからだ。

私の家の教えとして”中庸であれ”というものがある。

つまりいかなる思考・思想においても”ある方向に傾かないこと”を美徳とするというものだ。

誰かが意見を主張したとして、たとえそれが自分の考えでは許容できないものだっとしても「そういう意見もあるよね」と相手の意見を尊重する在り方である。

もちろん、私は聖人でも賢者でもないただの一個人なのでそういった在り方を完璧に実践出来ているかといえばそんなことはない。

ただ、私は多くの人、特にネット界隈の人にはこういった在り方で以って互いの主張を認め合ってほしいと願う。

全てと言わずとも、少しでも多くの人がこのような考え方で他人と接すれば、現実もインターネットももっと素晴らしい場所になるはずなのだ。