体調不良を経験して感じたもの

僕は持病の他に既に20年以上偏頭痛(これも持病と言えば持病だが)を患っているが、6月2日から3日にかけて今までの人生で最悪とも言えるほどの強烈な偏頭痛に襲われた。

右側の頭痛から始まり、それが左に移動したと思ったら、今度は両側に広がり、頭をトンカチで叩くような激しい痛みと吐き気にのたうち回り、光は眩しく感じ、周りのあらゆる音が耳障りに聞こえ、鎮痛剤すら効果はない。

ブログの更新は続けていたものの、集中力が著しく削がれていて、頭に靄がかかった状態の更新であったため、普段より適当に書いてしまった部分があるのは反省すべき点だ。

それらの記事については今度改めてリライトしよう。

それはそうと、一時は救急車を呼ぶかどうか迷うほどの強烈な痛みだった。

頭痛が治まっても食欲は全くなく、この数日間で随分とげっそりした。

今は弱い頭痛は感じるものの、痛みのピーク時とは比べものにならなくらい回復し、食事も普通に出来る。

このような強烈な偏頭痛は数年に一回起きていたが、今回の偏頭痛は最悪であった。

弱い偏頭痛は月に数回あるのですっかり偏頭痛を甘く見ていた。

そうしてこんな「これは本当に死ぬんじゃないか」と命の危険を感じるほどの体調不良になると、周りの景色は一変することに気づく。

毎日何気なく食べていた食事や、庭でさえずる小鳥の声や、木々の緑などがとても大切に思えてくる。

人は科学の力で死の存在を日常生活から可能な限り追いやることに成功したが、病気にしろ事故にしろ事件にしろ災害にしろ、実際は死というものは僕らが考えるよりもっと身近にある。

そんな中で強烈な体調不良に見舞われると、それまで隠されていた日常生活に紛れる死の存在、そして生きていることへの有り難さがクリアに見えてくる。

僕を含む多くの人にとって死の存在は近親者の死を除けば画面の向こうの出来事であるし、生の存在も普段の生活を送る僕らの前ではあやふやなものとして存在している。

そういった死への畏怖と、生への感謝が同時に見えるというのは、いかに僕らが普段死も生も意識していないということの証左なのではないかと思う。

「死ぬ病気ではない偏頭痛程度で何を大層なことを」とは自分でも思うが、この程度の体調不良で世界の見方が一時的とは言え変わるのだから、命に関わる病に見舞われた人や、事件や事故、災害で死という存在を間近にした人たちには僕より遥かに色んなものが見えただろうと思う。

恐らく僕はいつかコンピューターに向かい合った日々を後悔する日が来ると思う。

「コンピューターやガジェットにうつつを抜かさず、もっとこの世界の色んな面を見ておくべきだった」と、そう思うだろう。

とはいえ人間やることはやらなければならないので、今後もコンピューターに向かい合う日々は続くわけだが、人生や世界というのはちょっと角度を変えて見るだけで新しい側面が見えるということを実感した数日間であった。